日本で最も有名な侍である宮本武蔵(1584-1645)は、剣術家でした。彼は木製の刀を用い佐々木小次郎との最後の決戦に勝利し、剣の道に生命を吹き込んだのです。
植芝 盛平大先生(1883-1969)は日本が封建時代から近代国家へ変化する時代を完全に体験した人です。師匠の武田 惣角(1859-1943)による元祖武道技術の教練を経て、勝利への道には行き止まりがあることを理解しました。
彼は大本教団に出口鬼三郎(1871-1948) によって迎えられました。そしてこの先祖からの遺産を未来の世代に伝えるために合気道(平和の道)を通してこれらの技術を凌駕し私たち個々の神聖な部分にアプローチしました。
兵法二天一流は、次世代の平和の基盤として武道の遺産を伝えます。
ただ2つの石碑のみで古代と現代の精神的な闘士の道を要約します。
この月と太陽の彫刻は、人類の歴史を正確に表すものであり、自身を認識する魂のこの強力なシンボルによってそれが想起されます。契約の台座は、私たちの地域の契約部分です。これは、2020年の新しい令和の時代の心の象徴です。
大原の旗、リエルグの旗、美作の旗、日本国旗、オーヴェルニュ・ローヌ・アルプ・ドーフィネ・サヴォワ地方の旗、これらの連合は新しい東西の架け橋を興起させる活力です。
私たちはモダニズムは伝統から脱皮できないということを強調します。武士の魂(武士道)は今日でも重要であり、忘れることはできません。自然は4つの要素(地球、火、水、空気)から成り立っており、その確立された秩序から、思考が心の権利を留保するときにさまざまな分野で見られる調和が生まれます。
オーギュスト・ギノン、ルシアン・ピカール、レオン・ロシュ
オーギュスト・ギノンは1817年にリエルグで生まれました。1869年ギノンは田園集落のジャルニウー を共同洗濯場、村役場、学校、教会などの公共の建物の備わった村に作り変えました。
またリヨン近郊の サン=フォン に化学製品工場を設立し、財を成しました。彼はそこで絹産業で使用されるピクリン酸を開発しましたが、それはルイ・パスツールの研究(右旋性および左旋性)の結果として発見されたメリナイトとして知られる強力な爆発物としても使用されました。
ギノンが製造した製品は大量に日本に販売され、特に日露戦争 で利用されました。そしてさらにリヨンの クロワ・ルース の丘の織物工たちの不断の努力によってこの地の絹産業は一気に発展しました。
特に微粒子病の蔓延により蚕そしてリヨンの産業全体が損害を被った際に将軍徳川はフランス皇帝ナポレオン3世を通じて蚕を提供することでその経済活動を復活させ、横浜とリヨンの間に深く永続的な絆を生み出したのです。
この後ルイ・パスツールが、微粒子病を解決するための実践的な方法を採用したのです。さらに、この絆はイゼール出身のレオン・ロシュ総領事の賛助と、将軍徳川義信からの特権的な支援によって支えられるようになりました。
これは、港湾都市横浜の発展に貢献しました。横浜を外国との貿易に開港させたものは、「数々の不平等条約」 で、これは米国に強要されたのですが特に 1858年 の ハリス条約がそれにあたります。
これらの事業はすべて、リヨン地方の拡大に貢献し、ボジョレーワインの歴史の起源を形づくっています。
以上のことから、リヨンと日本の150年間の交流は、2014年12月8日にグライゼで設立された「兵法二天一流リヨン・日本、日仏記念館」を通じて行われています。
また、オーギュスト・ギノンは、化学産業家でコニーの市長でもあるルシアン・ピカールと密接に結びつくようになりました。
契約の台座は、4つの出来事の記念日を祝う機会:
150回目 の1860年から2018年における日仏平和関係の記念日。これはデュシェンヌ領事が1860年2月4日に批准された日仏間同意書を将軍に手渡した時に始まります。
20回目の フランスと日本で共同で設立した宮本武蔵武道館の記念日。
宮本武蔵の誕生日。武蔵は大原町で 天正12年 3月 12日 に誕生しました。
そして、キク・ヤマタ(日仏混血の著名作家)の物語は、 最初の日本人領事である父山田忠純氏の活動そして、初代リヨン領事、 そしてリヨン日本クラブの創設者である、ルイ・エミール・ミシャレット氏を想起させます、氏は兵法二天一流メモリアル(兵法家伝書)の設立と活動を公に認証した人であります。